メンター達との出会い の変更点
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#include(メンター)
*1983/4/17から〜「親」
両親の元に生まれて大阪市羽曳野市で育つ。~
なんだかんだ言って親が一番のメンターなんやと思う。
*小4か小5の時〜「M君」
今でも親友であるM君と出会う。~
僕はこの人の向上心に魅かれ中学生の終わりぐらいまで~
やたら2人ですごした。(ホモ疑惑とか出るぐらい)~
自分の中にある向上心の8割以上が彼からの影響といってもいいかもしれない。
*中学3年生の時〜「村上先生」
中学2年生の期末試験の英語の点数が23点で、~
これはさすがにヤバイということで親が塾に通わせてくれた。~
その時の塾で英語を教えていたのが「村上先生」。~
先生は英語の勉強を頑張る僕のことを徹底的にホメてくれた。~
ホメられるのが嬉しくて僕はもっと英語を勉強した。~
気付けば一番不得意科目だった英語が一番得意科目になっていた。
*高校2年生ぐらいの時〜「techiさん」
高校に入ってから僕は毎週土曜日に~
「羽曳野ウインドアンサンブル」という所に通っていました。~
そこでコンガで参入したのが「techi」さん。~
初対面でパンデイロを紹介された。~
そして初対面でいきなり電話番号を聞かれた。~
そして後日連絡があって「パンデイロやらんか?」~
と言われた。~
とりあえず言ってみた。~
そうすると自分のパンデイロ(スザーノモデル2000版)~
を惜しげもなく僕に貸してくれて~
教則ビデオを貸してくれ、~
練習用のテキストまで作ってくれた。~
その後スチールドラムのバンドのドラムを叩かせてもらえる~
機会を作ってくれたりもした。~
しかし僕が高2を終了して学校を辞めて自宅勉強を始めて~
1年ぐらいした時、いきなり~
「タイに5年ぐらい言ってくる」~
と言って行ってしまった。~
その時パンデイロをいくら練習しても上手くならなくて~
飽きてしまっていた僕はスザーノモデル2000を~
techiさんに返してしまう。
*大学に入学して〜「techiさんと再会」
2年間の苦しかった自宅浪人期間を終え、~
ついに大学に入学することが出来た。~
さっそく打楽器専門店のACTにパンデイロを買いに行った。~
しかしプラヘッドのばかりで皮製のものは品切れであった。~
そこで値は張るし少し大きいがジャンベを買うことにした。~
そうしているとACTの試奏室から誰か出てきた。~
なんとそれがtechiさんだったのです!~
「え!?今何やってるんですか!?」~
と聞くと~
「毎週金曜日夜9時から一人で皿人の活動しとる」~
とおっしゃいました。~
そうして再びスザーノモデル2000をお借りし、~
次週から「関西パンデイロ振興会」~
として毎週活動するのでした。~
習慣というものは恐ろしいもので~
毎週金曜日の夜になると体が心斎橋へ向かいます。~
気付いたらパンデイロを持って出かけています。
*そのtechiさんと再会した当日〜「横沢さん」
techiさんと再会した日、僕はあるライブへ連れて行かれました。~
それはジャンベ1人+ドラム2人の3人という~
衝撃的な編成でした。~
ジャンベ奏者は後で僕のジャンベの師匠になる「横沢さん」で~
片方のドラマーは江崎さんっていう名前だったと思うんですけど~
体中の力が完全に抜けていて踊るように叩く人。~
もう片方のドラマーは「電脳警察」っていうバンドの~
ドラマーの人でした。~
まじすごかったです。~
それに感動した僕は早速techiさんの横沢さんの連絡先を聞いて~
コンタクトを取り、土日に月6回、アメ村内で行われている~
ジャンベ教室に通うことになるのでした。
*高2で学校辞めた後の話〜接骨院バイトの院長先生
話が前後してしまうのですが
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